2010年02月11日
アナザーリアリティー試論 II ・3
ユーザーの性格を反映したアバターやキャラクターが集まれば「社会」が形成されるわけだが、単に集まるということだけでは成立しない。つまり、ユーザー同士が他人のアバターやキャラクターを、「他人」として認識することが前提とされる。
Iでは主に一人称的にアバターやキャラクターを「もうひとりの自分」として認識している過程について考えてみたが、ここでは自分以外のアバターやキャラクターを、モニターの中の友人や知人として認識していくことについても考えてみたい。
その過程において、アバターやキャラクターが、それを操作するユーザーの性格を反映した「個性」を持っていることが重要だろう。プログラムによって動作するBOTには、仮想世界であっても、同じユーザーとしての親近感は持たないからだ。
アドターやキャラクター同士で交流していく中で、親友と思えたり、恋愛に発展するケースももちろんある。アバターやキャラクターを通してモニターの前にいるユーザーの性格を受け入れる結果といえるだろう。
文字チャットや音声チャットによるコミュニケーションによって、ネット上でも親交が生まれるのはMMORPGや仮想世界だけの話しではない。が、アバターやキャラクターを介してのコミュニケーションとなるMMORPGや仮想世界では、掲示板やチャットルームほどオフラインミーティング、いわゆるオフ会の開かれる頻度が少なく感じられるし、現実にユーザー同士が会うということも少なく感じる。
ここに現実とは別の「もうひとつの現実」として、自分も、仲間も、その世界で会い、話せるという認識が強く表れているのではないかと思えるのである。

※「おたくま経済新聞」にてコラム連載中。
http://www.otakei.otakuma.net/
Iでは主に一人称的にアバターやキャラクターを「もうひとりの自分」として認識している過程について考えてみたが、ここでは自分以外のアバターやキャラクターを、モニターの中の友人や知人として認識していくことについても考えてみたい。
その過程において、アバターやキャラクターが、それを操作するユーザーの性格を反映した「個性」を持っていることが重要だろう。プログラムによって動作するBOTには、仮想世界であっても、同じユーザーとしての親近感は持たないからだ。
アドターやキャラクター同士で交流していく中で、親友と思えたり、恋愛に発展するケースももちろんある。アバターやキャラクターを通してモニターの前にいるユーザーの性格を受け入れる結果といえるだろう。
文字チャットや音声チャットによるコミュニケーションによって、ネット上でも親交が生まれるのはMMORPGや仮想世界だけの話しではない。が、アバターやキャラクターを介してのコミュニケーションとなるMMORPGや仮想世界では、掲示板やチャットルームほどオフラインミーティング、いわゆるオフ会の開かれる頻度が少なく感じられるし、現実にユーザー同士が会うということも少なく感じる。
ここに現実とは別の「もうひとつの現実」として、自分も、仲間も、その世界で会い、話せるという認識が強く表れているのではないかと思えるのである。

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2010年02月10日
アナザーリアリティー試論 II ・2
アバターやキャラクターがユーザーの性格を反映し、モニターの向こうの世界に存在し始めると、複数のアバターやキャラクターが集まることによって「社会」が形成されていく。例え現実の世界とかけ離れた世界であろうとも、現実世界に生きるユーザーの性格を反映したアバターやキャラクターによって構成される社会では、現実世界と同じようなルールが作られていくのも当然だろう。
ルールはその世界を運営するために、あらかじめシステムの運営会社が設けている部分もある。ほとんどは一般常識的な、犯罪や不正な利用を阻止するもの、他のユーザーとのあいだでのトラブルを防止するものだが、それに基づいてコミュニティー(グループやギルドなど)が独自のルールを作ることもある。
例えてみるなら国の憲法と地域のルールのようなものだろうか。
現実から離れた世界であるにもかかわらず、ユーザーがそこに集まることで現実がその世界に進入し、もうひとつの現実となっていくのである。
ルールはその世界を運営するために、あらかじめシステムの運営会社が設けている部分もある。ほとんどは一般常識的な、犯罪や不正な利用を阻止するもの、他のユーザーとのあいだでのトラブルを防止するものだが、それに基づいてコミュニティー(グループやギルドなど)が独自のルールを作ることもある。
例えてみるなら国の憲法と地域のルールのようなものだろうか。
現実から離れた世界であるにもかかわらず、ユーザーがそこに集まることで現実がその世界に進入し、もうひとつの現実となっていくのである。

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2010年02月09日
アナザーリアリティー試論 II ・1
Iでボクが「アナザーリアリティー」と捉える世界についての概論を述べた。IIではその世界の中について考えてみたいと思う。
まずアナザーリアリティーと捉える要素として、ユーザーが自己投影するアバターやキャラクターがあると述べた。しかしこのアバターやキャラクターは、人の形をしているものだけではない。
システム側が用意したキャラクターから選択するしかないMMORPGなどでは、人ではないキャラクターとして、魔族や獣人といったパターンが見られるが、ユーザー自身がアバターを制作することのできるSecond Lifeなどの仮想世界では、さらにさまざまなアバターが存在している。その世界では犬や猫といった動物や、植物、鉱物、宇宙人、まったくみたこともない「もの」にさえなれる。
しかし外見がどうあろうと、チャットや音声による他のアバターとのコミュニケーションをはかる中で、そのアバターはユーザーの性格を反映していく。
また現実の世界(都市など)を舞台としないMMORPGやユーザーによって街が作られる仮想世界であっても、「もうひとつの現実」として認識されるのも、このユーザー同士の交流による、キャラクターの形成によって、ということになる。生身の肉体を持つ現実とはべつの、ネット上の、モニターの向こうの架空の世界であっても、そこではユーザーは確かにそこに存在し、何らかの役割を意図的か、そうでないかも含めて演じることになるからだ。

※「おたくま経済新聞」にてコラム連載中。
http://www.otakei.otakuma.net/
まずアナザーリアリティーと捉える要素として、ユーザーが自己投影するアバターやキャラクターがあると述べた。しかしこのアバターやキャラクターは、人の形をしているものだけではない。
システム側が用意したキャラクターから選択するしかないMMORPGなどでは、人ではないキャラクターとして、魔族や獣人といったパターンが見られるが、ユーザー自身がアバターを制作することのできるSecond Lifeなどの仮想世界では、さらにさまざまなアバターが存在している。その世界では犬や猫といった動物や、植物、鉱物、宇宙人、まったくみたこともない「もの」にさえなれる。
しかし外見がどうあろうと、チャットや音声による他のアバターとのコミュニケーションをはかる中で、そのアバターはユーザーの性格を反映していく。
また現実の世界(都市など)を舞台としないMMORPGやユーザーによって街が作られる仮想世界であっても、「もうひとつの現実」として認識されるのも、このユーザー同士の交流による、キャラクターの形成によって、ということになる。生身の肉体を持つ現実とはべつの、ネット上の、モニターの向こうの架空の世界であっても、そこではユーザーは確かにそこに存在し、何らかの役割を意図的か、そうでないかも含めて演じることになるからだ。

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2010年02月08日
アナザーリアリティー試論・8
ここでもう一度「アナザーリアリティー」というものを捉え直してみたい。
ここまで思考してきたことを振り返るとき、「アナザーリアリティー」と「ヴァーチャルリアリティー」は似て非なるものと言うことができる。
これは「ヴァーチャルリアリティー」が現実を模した、あるいは現実のような仮想であるのに対して、「アナザーリアリティー」は、仮想ではあるが現実と結びついたものと言えるだろう。
この結びつきが、ユーザーの自己投影によるアバター及びキャラクターのパーソナリティーに根ざしていることは先に延べた。
また、自己投影をするアバターやキャラクターが生きる世界そのものに、ユーザーは思い入れを強めていくとも言える。
そしてでき上がる仮想世界が、すなわちアナザーリアリティーの世界となるのである。
したがって、「もうひとつの現実世界」と呼べるとしても、それは現実の世界(建物や都市といった)を模している必要はない。ユーザーがアバターやキャラクターという「もうひとりの自分」を生きる世界がアナザーリアリティーなのである。

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ここまで思考してきたことを振り返るとき、「アナザーリアリティー」と「ヴァーチャルリアリティー」は似て非なるものと言うことができる。
これは「ヴァーチャルリアリティー」が現実を模した、あるいは現実のような仮想であるのに対して、「アナザーリアリティー」は、仮想ではあるが現実と結びついたものと言えるだろう。
この結びつきが、ユーザーの自己投影によるアバター及びキャラクターのパーソナリティーに根ざしていることは先に延べた。
また、自己投影をするアバターやキャラクターが生きる世界そのものに、ユーザーは思い入れを強めていくとも言える。
そしてでき上がる仮想世界が、すなわちアナザーリアリティーの世界となるのである。
したがって、「もうひとつの現実世界」と呼べるとしても、それは現実の世界(建物や都市といった)を模している必要はない。ユーザーがアバターやキャラクターという「もうひとりの自分」を生きる世界がアナザーリアリティーなのである。

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2010年02月06日
アナザーリアリティー試論・7
人は、肉体のほかに魂(あるいは霊魂)があり、そのふたつがひとつになることで「生きている」状態と考えている。いや、そう思っている人が圧倒的に多いだろう。魂や霊魂が、たとえ科学的に証明されていなくとも、物体である肉体に何らかの作用を及ぼす別のものがあって初めて、生きた生物としてあるのだと考えている人が多いと思う。また、この肉体を離れた魂なり霊魂の思想があるからこそ、天国なり地獄といった世界も成立している。
ここでいう「魂」や「霊魂」は心霊学的な捉えかたになるだろうが、この論の主旨であるアナザーリアリティーに当てはめて考えたとき、これを心理学的な「自我」と捉えてみれば、現実の肉体を離れて仮想空間の中で「もうひとりの自分」にそれを投影し、自己を確立していく要素となることは、わりと受け入れ安い思考ではないだろうか。
心理学では、自我、超自我、エスと自我にも段階があることを解いているが、日常でも人は多面的な要素を併せ持っており、いくつかの「顔」がある。先に延べた、アバターやキャラクターが腹話術の人形のように用途によって使い分けられるのと同じように、日常でも人は、シーンによって自分を使い分けているといえる。
つまり、アナザーリアリティーは現実の自分を映す鏡にほかならないと言えないだろうか。
意図して仮想世界のアバターやキャラクターに自己を反映させるのではなく、現実世界で鏡に自分を映すように、自然に自己が仮想世界のアバターやキャラクターに反映されるのである。

※「おたくま経済新聞」にてコラム連載中。
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ここでいう「魂」や「霊魂」は心霊学的な捉えかたになるだろうが、この論の主旨であるアナザーリアリティーに当てはめて考えたとき、これを心理学的な「自我」と捉えてみれば、現実の肉体を離れて仮想空間の中で「もうひとりの自分」にそれを投影し、自己を確立していく要素となることは、わりと受け入れ安い思考ではないだろうか。
心理学では、自我、超自我、エスと自我にも段階があることを解いているが、日常でも人は多面的な要素を併せ持っており、いくつかの「顔」がある。先に延べた、アバターやキャラクターが腹話術の人形のように用途によって使い分けられるのと同じように、日常でも人は、シーンによって自分を使い分けているといえる。
つまり、アナザーリアリティーは現実の自分を映す鏡にほかならないと言えないだろうか。
意図して仮想世界のアバターやキャラクターに自己を反映させるのではなく、現実世界で鏡に自分を映すように、自然に自己が仮想世界のアバターやキャラクターに反映されるのである。

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2010年02月05日
アナザーリアリティー試論・6
アナザーリアリティーは、ヴァーチャルリアリティーを呼び換えるものではないとさきに述べた。
両者の差異についても触れたが、さらに付け加えればそこにコミュニケーションがあるかないかということがあげられると思う。
もちろんヴァーチャルリアリティーも一方的なものではあるがコミュニケーションではある。しかし普通使われる意味での「交流」を指すものとしては、アバターやキャラクターが文字チャットや音声で会話のできるMMORPGや仮想空間におけるコミュニケーションとして認識されるだろう。
このコミュニケーションがあるからこそ、ユーザーはアバターやキャラクターをもうひとりの自分として認識することになるのだと思う。そしてそうしたユーザーが集まることで、その世界が「もうひとつの世界」「もうひとつの現実」となっていくのではないだろうか。
自分を自分として認識する要素として他人があり、その他人が存在するMMORPGや仮想空間だからこそ、他人とは違う自分を認識し、現実の自分をアバターやキャラクターに投影していくのではないだろうか。それにはコミュニケーションが不可欠である。

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両者の差異についても触れたが、さらに付け加えればそこにコミュニケーションがあるかないかということがあげられると思う。
もちろんヴァーチャルリアリティーも一方的なものではあるがコミュニケーションではある。しかし普通使われる意味での「交流」を指すものとしては、アバターやキャラクターが文字チャットや音声で会話のできるMMORPGや仮想空間におけるコミュニケーションとして認識されるだろう。
このコミュニケーションがあるからこそ、ユーザーはアバターやキャラクターをもうひとりの自分として認識することになるのだと思う。そしてそうしたユーザーが集まることで、その世界が「もうひとつの世界」「もうひとつの現実」となっていくのではないだろうか。
自分を自分として認識する要素として他人があり、その他人が存在するMMORPGや仮想空間だからこそ、他人とは違う自分を認識し、現実の自分をアバターやキャラクターに投影していくのではないだろうか。それにはコミュニケーションが不可欠である。

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2010年02月02日
アナザーリアリティー試論・5
さきにユーザーと、アバターやキャラクターの関係を腹話術師と人形に例えたが、腹話術師の人形はひとつではない。動物であったり子供や老人といった、話を進める上での役割を演じる用途によって使い分けられる。
これは、MMORPGでよく見られる、1ユーザーが複数のキャラクターを制作し使い分けることにも共通しないだろうか。
MMORPGでは、キャラクターの種族や職業の種類によって、複数のキャラクターで楽しむということがあらかじめ想定されているので、1ユーザーが複数のキャラクターをつくることを容認している。また持ち物にアイテムが入りきらなくなることもあり「倉庫キャラ」という、持ち物を持たせるだけのキャラクターを作ることも半ば常識化している。
種族や職業によってキャラクターの外見は違い、名前も変えて作ることになるが、同じユーザーが操作することで、共通性は出てくる。しかし複数のキャラクターが全く同じかというと、キャラクターの外見や能力によってユーザー自身が使い分けをしている面もあると思う。これが腹話術師と人形の関係に近いのではないかと思えるのだ。
ユーザーの意思を反映したもうひとりの自分ではあっても、ある程度の距離感をも意識したもの、それがアナザーリアリティーの世界ではないだろうか。

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これは、MMORPGでよく見られる、1ユーザーが複数のキャラクターを制作し使い分けることにも共通しないだろうか。
MMORPGでは、キャラクターの種族や職業の種類によって、複数のキャラクターで楽しむということがあらかじめ想定されているので、1ユーザーが複数のキャラクターをつくることを容認している。また持ち物にアイテムが入りきらなくなることもあり「倉庫キャラ」という、持ち物を持たせるだけのキャラクターを作ることも半ば常識化している。
種族や職業によってキャラクターの外見は違い、名前も変えて作ることになるが、同じユーザーが操作することで、共通性は出てくる。しかし複数のキャラクターが全く同じかというと、キャラクターの外見や能力によってユーザー自身が使い分けをしている面もあると思う。これが腹話術師と人形の関係に近いのではないかと思えるのだ。
ユーザーの意思を反映したもうひとりの自分ではあっても、ある程度の距離感をも意識したもの、それがアナザーリアリティーの世界ではないだろうか。

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2010年02月01日
アナザーリアリティー試論・4
ボクが考えるアナザーリアリティーは、これまでヴァーチャルリアリティーと呼ばれてきたのもを、名称変更することではない。
というのは、3DCG技術やARなどで、現実のように見える架空の映像は「ヴァーチャルリアリティー」としていまも、そしてこれからもあり続け、そう呼ばれると思うからだ。
一方ボクが「アナザーリアリティー」と呼ぶものは、たとえばSecond LifeのようなメタバースやMMORPGといった、一見して現実ではないとわかってしまう世界に多いと思う。これは先述したユーザーの意識がどこまで入り込んでいるかというのが判断の基準となるので、見た目の映像で判断しているものではない。またユーザーの操作といったその世界での自由度をあげることで、現時点では現実と錯覚するような仮想世界の映像というのはまだ難しいのかもしれない。
話が少し横道にそれるが、仮想世界でユーザーがつくる動画などが、アナザーリアリティー内のヴァーチャルリアリティーと呼ばれることも今後あるかもしれない。
というのは、3DCG技術やARなどで、現実のように見える架空の映像は「ヴァーチャルリアリティー」としていまも、そしてこれからもあり続け、そう呼ばれると思うからだ。
一方ボクが「アナザーリアリティー」と呼ぶものは、たとえばSecond LifeのようなメタバースやMMORPGといった、一見して現実ではないとわかってしまう世界に多いと思う。これは先述したユーザーの意識がどこまで入り込んでいるかというのが判断の基準となるので、見た目の映像で判断しているものではない。またユーザーの操作といったその世界での自由度をあげることで、現時点では現実と錯覚するような仮想世界の映像というのはまだ難しいのかもしれない。
話が少し横道にそれるが、仮想世界でユーザーがつくる動画などが、アナザーリアリティー内のヴァーチャルリアリティーと呼ばれることも今後あるかもしれない。

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2010年01月31日
アナザーリアリティー試論・3
「もうひとりの自分」というものを具体的に見せたのは、映画『アバター』だったかもしれない。またアニメ『攻殻機動隊』に登場するリモート擬体というものも「もうひとりの自分」といえるだろう。これらは共に、主人公と同じ現実世界に存在するという設定である。いまボクがアナザーリアリティーと呼ぶ仮想世界やMMORPGの世界は、ネット上の、PC画面の向こうの世界ということで、現実ではない。それらの世界の中に「もうひとりの自分」を感じているユーザーも、現実世界とは区別して意識しているはずである。この関係はもしかしたら、腹話術師と人形の関係に近いのかもしれない。人形はあたかも腹話術師とは別の人格を持っているように見えながら、あくまでも腹話術師の意思のもとにコントロールされる。ユーザーの意志というものがキャラクターやアバターに与えているものに近いのではないだろうか。

※「おたくま経済新聞」にてコラム連載中です。

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2010年01月29日
アナザーリアリティー試論・2
このアニミズム的にアバターを捉えるという考え方は、たとえば「ネトゲ廃人」と呼ばれる人たちに顕著に表れているのではないだろうか。
彼ら(彼女ら)にとって、それは現実ではないという認識を持っていても、だからといって自分とは別の存在ということでもなく、まさに「もうひとりの自分」「もうひとつの(現実)世界」としてそこにあるといえる。
多くのオンラインゲームでは、システムが用意したキャラクターの中から自分の好きなものを選択し、多少のカスタマイズを加えてプレイする。したがって同じ顔、同じ服装のキャラクターが複数存在することになるわけだが、ユーザーが操る「癖」やチャットによる自己表現がそこに「キャラクター(人格)」を与えていく。自分の操るキャラクターへの思い入れなどが、アニミズム的な霊的、精神的なものを3DCGのキャラクターに与えることによって、それは単なる画像ではなく、もう「ひとりの自分」として認識されていくのだと思う。
Second Lifeのように細かくアバターをカスタマイズすることのできる世界は、その傾向がなおさら強くなるのではないだろうか。
彼ら(彼女ら)にとって、それは現実ではないという認識を持っていても、だからといって自分とは別の存在ということでもなく、まさに「もうひとりの自分」「もうひとつの(現実)世界」としてそこにあるといえる。
多くのオンラインゲームでは、システムが用意したキャラクターの中から自分の好きなものを選択し、多少のカスタマイズを加えてプレイする。したがって同じ顔、同じ服装のキャラクターが複数存在することになるわけだが、ユーザーが操る「癖」やチャットによる自己表現がそこに「キャラクター(人格)」を与えていく。自分の操るキャラクターへの思い入れなどが、アニミズム的な霊的、精神的なものを3DCGのキャラクターに与えることによって、それは単なる画像ではなく、もう「ひとりの自分」として認識されていくのだと思う。
Second Lifeのように細かくアバターをカスタマイズすることのできる世界は、その傾向がなおさら強くなるのではないだろうか。

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2010年01月28日
アナザーリアリティー試論・1
インターネットなどの仮想世界は一般的にヴァーチャルリアリティーと呼ばれている。
現実を模した、しかし現実ではない世界であるということではそれは「仮想」であることに違いないかもしれない。
しかし、メタバースと呼ばれる仮想空間やMMORPGなど多数のユーザーが同じ時間と空間を共有する世界は、もうひとつの現実世界、アナザーリアリティーと呼べるのではないだろうか。
もちろん3Dや通信速度といった環境やCGなど表現の進化によって、見た目として現実に近づいてた仮想世界ということも確かにある。が、ボクが仮想世界をアナザーリアリティーと呼べるのではないかというのは、そこに集まるユーザーたちがいるからだ。
それぞれのユーザーが操るキャラクターやアバターは、それだけでは3DCGで描かれたグラフィックにすぎないが、ユーザーによってひとつの人格として認識されていくことになる。これはアニミズム的な心身二元論でいえば、現実の肉体から分離した人格が仮想世界のアバターと融合した状態といえるのではないかと思うのだ。この意味において仮想世界のアバターはそのユーザーの「もうひとりの自分」として存在することになる。
この構想はもう少し深めてみる価値があると思う。
現実を模した、しかし現実ではない世界であるということではそれは「仮想」であることに違いないかもしれない。
しかし、メタバースと呼ばれる仮想空間やMMORPGなど多数のユーザーが同じ時間と空間を共有する世界は、もうひとつの現実世界、アナザーリアリティーと呼べるのではないだろうか。
もちろん3Dや通信速度といった環境やCGなど表現の進化によって、見た目として現実に近づいてた仮想世界ということも確かにある。が、ボクが仮想世界をアナザーリアリティーと呼べるのではないかというのは、そこに集まるユーザーたちがいるからだ。
それぞれのユーザーが操るキャラクターやアバターは、それだけでは3DCGで描かれたグラフィックにすぎないが、ユーザーによってひとつの人格として認識されていくことになる。これはアニミズム的な心身二元論でいえば、現実の肉体から分離した人格が仮想世界のアバターと融合した状態といえるのではないかと思うのだ。この意味において仮想世界のアバターはそのユーザーの「もうひとりの自分」として存在することになる。
この構想はもう少し深めてみる価値があると思う。

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